さくら

第18話:始動の報せ



(…眠れない)

窓から昇る太陽を見て、サクラは溜息をついた。眠りもしなかったベットから起きあがり、顔を洗いに洗面所へ行く。鏡に写った生気のない顔。任務をしていたわけでもないのに、やつれ目の下には隈ができている。

(今日で…5日)

このままでは可笑しくなりそうだ。
そんなサクラを気遣うように、手首の紐が揺れた。


「サクラちゃん!」

いつものように化粧で誤魔化し家をでると、こちらに向かってくる金色の髪。ぶんぶんと大きく手を振り、恥ずかしげもなく自分の名を呼ぶ。

「おはよう、ナルトあいかわらず元気ね」
「それはないってばよ~おはようサクラちゃん」

笑い返すと、サクラを見たナルトの眉が中央に寄った。

「サクラちゃん…具合悪いのかってばよ?」

思わずギクリとなり、内心焦る。無神経そうに見えて、ナルトは人の気持ちなどに聡い。気を抜けば全然眠っていないことがばれると、サクラは疲れている体を叱咤した。

「薬の研究が息詰まってるのよ~頭が痛いわ。ってナルトに言ってもわかんないわよね」
「そんなことないってばよ!」

怒った顔をしたナルトに笑い返し、これ以上悟られないうちにとサクラは話題を変える。

「それで?こんな朝っぱら何のよう?」
「あ、俺今から任務なんだってばよ。だから…」
「そうなんだ」

顔を見に来たのだと告げるナルト。緊急性がない時はこうやっていつも自分に会いに来る。勿論サスケがいれば彼にも同じ事をしただろうが、生憎彼は里にいない。

「気をつけて」
「うん」

ナルトは、たったその一言を聞きにやってくる。そのために自分に会いに来る。だから、サクラは必ず満面の笑みを見せてやるのだ。

「いってらっしゃい」
「いってくるってばよ!」

無事に戻ってくることを願って、その言葉を贈る。サクラに手を振り返し、道を戻っていくナルト。サクラは立ち止まりその姿が見えなくなるまで見送っていた。

いってらっしゃい。
相手を気遣う、無事を願う言葉。
アカデミーに入るまで、普通の家庭で生まれ、育ったサクラが当然のように知っていた言葉。
だが、両親がいるサクラは知らなかった。その言葉さえ言ってもらえない人がいるということを。アカデミーにいる子供達は両親のどちらかが忍であることが多く、それゆえに片親になっているものも多かった。殉職した忍の家族には、ある程度補償というものはあるものの、残された片親は子供達を養うため、働きづめで家には誰もいないことが多い。
だから、そんな言葉を忘れてしまう。しかし、それは孤独に生きる者達にも同じ事で。

ガサリと木の葉が揺れ、木の間から桜色の少女を見つめる二人の目。姿の見えなくなった少年を見送る慈愛の籠もった瞳。

自分達が失って久しいものの一つだ。

『守座』に求められるのは強さではない。
そう言った夜斗の言葉が、彼女を護衛しているナギとヒサメの頭に蘇る。

自分達が欲しているもの、必要としているもの。

『守座』を持ったことのない彼らにはまだわからない…



(…はぁ…なんでこの年で心労なんて…)

顔色を化粧で隠していたものの、やはり主任にはばれ、無理矢理医者に連れて行かれた。胃が痛いことを告げれば、初期の胃潰瘍と診断され心労でもあるの?と聞かれたが。

(答えられるわけないし…)

サクラの手には薬袋。それを見て、ますます気が重くなる。根本的な原因を解決しない限り、これが直らないとわかっているが。

(解決…より私の気持ちしだいなのよね)

どう足掻いても『守座』から逃げられないとイルカは告げた。しかし、どう考えても自分がそれに選ばれる理由はわからなくて。

(頭も痛くなってきた)

どうせ仕事場へ行っても帰されるだけだとわかっているので、サクラはとぼろぼと家路を歩く。健康管理もできないのは忍としても失格だとわかっているのが、誰にも相談もできず一人で悩むサクラには酷な話しだった。


「…サクラ?」
「え?」


ここで聞くはずのない声。
空耳かと疑いながら振り向けば、その声の主は立っていた。

銀色の髪。
顔のほとんどを隠した怪しい風体。しかし、里でも指折りの上忍。

はたけカカシ。
下忍時代の恩師。

「カカシ先生!?」

カカシはサクラの声に、眠そうな右目をにっこりと細めた。


「胃潰瘍?それでかぁ」

近くの喫茶店に連れだって入った二人は、奥まった場所で久しぶりの再会を喜んだ。あの頃と少しも変わっていないカカシに、一年以上顔も見なかったとは信じられない。話題はつきないものの、この懐かしい感じに、最近沈んでいたサクラの気持ちは浮上する。
…例えそれが逃げでしかないとわかっていても。

「顔色悪いからね~つい声をかけちゃったよ」
「それって、じゃなければ声かけなかったってことですか?ひどーい、カカシ先生」
「ははは」

自分の言動が少し幼くなることにサクラは気付く。忍としての基礎を叩き込んでくれたカカシは、ある程度自分を見せられる相手だったから、つい甘えてしまうのかもしれない。
ずっと戦場を渡り歩いているとは聞いていた。たまに里にいるアスマ達とは違い、カカシは里へ足を踏み入れない。昔と変わらぬ、のっそりとした動き。だが、敵が現れれば瞬時に変わるのだろう、自慢の師でもあるカカシ。

しかし、何故彼がここにいるのか。

「…先生帰ってきたんですか?」
「ん?」
「ずっと任務続きだと聞いてましたから」
「アスマから聞いたの?まーね。色々忙しくて」

そう言って笑うカカシだが、それがすべての真実ではないと知っている。いや、勘の良いものなら気付くかもしれない…だが、サクラは知っているのだ。

「ねぇ…先生」

気付けば問いかけていた。
いや、告白か。

「ん?」

知っていながら、何もできなかった己の。

「私…」

そして、今まで口を噤んでいた自分の。

「…私…」

今更言葉にして、どうするというのだ。
それに気付いてサクラは言葉を止めた。
口を噤んだサクラを不思議そうに見るカカシ。自分を見るその眼差しには、苦悩の色など見えなかった。だが、彼をまだイルカを思い続けているのではないか。
だから里に戻って来なかったのではないか。

卑怯だとわかっている。だが、これからの自分の決心に背を押してくれる人も必要だった。
自分は弱くて、まだ師の存在を必要としていて。

だけど、償いもしたくて…

「サク…」
「知ってたの…」
「?」

カカシの心を抉る。
そして、イルカの心を抉る。


「つき合ってたこと…知ってたの」


刀としかなれぬのだ。忍の自分には。

春を埋め尽くす桜のように、人を癒すことなど自分にはできないのだ…
一瞬の沈黙。
突然話題を出した自分を不審がるだろうか。それとも…

「そっか」

俯いていた顔を上げれば、カカシは笑っていて。唯一見える瞳が、あの頃のように優しくて。
でも、悲しみに包まれてもいて。

「ごめんなさい」
「さくらが謝ることじゃないでしょ」

そうは言ってくれたが、サクラの気持ちは晴れない。知っていて黙っていた。そして何もできずに…

「先生は…」
「帰って来るつもりはなかったんだけどね」

サクラの言葉を遮って、そう一言。だが十分すぎる言葉。

「…ナルトとサスケとも会えるかなぁ」
「先生がいるって聞いたらすぐ飛んでくるわよ」
「だね~」

カカシは二度とその話題に触れなかった。そしてサクラも十分だった。

帰ってくるつもりはなかった。

その一言で彼がまだ思い続けていると確信できたから。



「…ねぇ、華式。私は卑怯かな?」

カァと首を傾げる白い鴉は、元気のない少女を励ますべく綺麗な桜色の髪をそっとつついた。

「くすぐったい…」

ようやく笑ったサクラに、華式は安堵しながらいたずらを続けていると、サクラの手が華式をそっと包み込む。

「でもね。決めたの。卑怯者でもいいって、目的を果たすためなら卑怯者になろうって。それだけしか私にはできないから」

すべてを騙すものになろう。真実は自分の胸だけに。

「味方はお前だけね」

白い鴉が空に舞う。サクラの思いを伝えに、闇鴉達の元へ。
枝垂桜にもたれると、触れている部分が不思議と暖かい。まるで励まされているようだとサクラは一言礼を述べた。


この道を選んだことを後悔しないために。



「…これは驚いた」

ホムラは目の前に現れた人物を見てそう述べた。自分を死んだことにすると告げてから一年と少し。もう、二度と現れないと思っていたのに。

その理由は…

「望みが叶ったと思ってよいのか?イルカ」
「ご心配をおかけしました」

面を外し、顔を露わにしたイルカはそう言って頭を下げる。ホムラとここに居ないコハルはイルカが『闇鴉』の一員であるということを唯一知っている人達。
そして今は亡き三代目とともに、アカデミーの教職にいることを許してくれた人。

「では…ようやく『闇鴉』も動くということだな」
「はい。ですが、繋ぎはこちらから派遣いたします」
「…どういうことだ」

『闇鴉』の『守座』。
それが決まった時点で、その存在を火影に報せるのが今までの恒例だったのに。それを報告しないとはどういう意味を持つのか。ホムラの視線が鋭くなる。

「…我らの守座は、まだその地位に就く心構えができておりません」

その前に里に報せれば、闇鴉と里との重圧に押しつぶされる。それを危惧した闇鴉達の決定だ。
だが、それでは里も納得しないとわかっていた。

「明日、一人の仲間をこちらへお送りいたします。その者は我らの中でも「頭脳」の位置にいるもの。いかようにもお使い下さい」
「……それで納得できると思っておるのか」
「納得して頂く。それしかありません」

イルカの強気な態度にホムラは眉を寄せた。だが、本来このような報告でさえ『闇鴉』達はしたがらない。それでも、形だけとは言え、里に頭を下げに来るのは『守座』の立場を思ってのこと。新しい『守座』が立ったのに黙っていれば、何かあった時、里からその部分をつけ込まれてしまい、不利な立場となるかもしれない。その危険性を消すために。それに…

「我らは仲間を見捨てることはありません」

ほぼ、人質にも似た形で来る『闇鴉』の一員。
『守座』のためとはいえ、捨てた里に居なくては行けないということは苦しいとしかいいようもない。なのに敢えてそれに甘んじる…すべては『守座』のためだけに。

「…わかった」

そう答えるしかないだろう。ホムラは頭を下げ、再び面を付けたイルカを見送った。

「慎重だの」

外で話を聞いていたコハルがホムラの前にゆっくりと現れた。当然イルカも気付いていただろうが、話の腰を折るのがいやで敢えて入ることをしなかったのだ。

「それも仕方あるまい…何しろ」

前の『守座』は殺されたのだから。
そのことにどれだけ『闇鴉』が己を責めたことか。

「壊れなかったのが奇跡じゃよ」

遠くを見る目つきでコハルは呟いた。

さくら (2004.2.12)