さくら

第5話:託された物



あれから、サクラの目には何一つ変わっていないように見えた。だが、カカシがイルカのいる時間に受付所にいかなかったり、イルカとの会話にカカシが出てこなくなったり、小さな変化にサクラならずも、ナルトやサスケも気づいているようだった。
相変わらずカカシは眠そうな目で、自分達とともにいるが、時折気落ちした様子を見せる。まだイルカのことが吹っ切れていないのだと思うのだが、どうしたことかイルカにはそんな様子が見られなかった。
そのことに、サクラは約束通り何も聞かず、イルカが話してくれるのを待っていた。
だが、それに苛立ちを感じ始めていたのが、アスマと紅。
嫌いになって別れたのではない、そう知っているから尚更。
イルカの心を開けなかった自分を恥じ、イルカを開放することを選んだカカシ。彼の変化が好ましかった分、カカシを突き放したイルカの態度がどうしても2人には納得できなかったのだ。

しかし、変化は着実に現れていて、その変化をイルカが心待ちにしていることなど誰も知らない。

イルカは待っていた。その時がくる日を。自分で望んで受け入れられたその日がくることを…ずっとずっと。

「おい、ちょっといいか」
「はい?」

アカデミーが終わって、一人帰路についていたイルカは、自分を呼び止める声に足を止めた。そこにいたのは、今年のルーキーを受け持っている一人アスマ。
何か用だろうかと、はいと頷けば、アスマはイルカの隣に並び歩き始めた。

「…カカシと別れたんだってな」
「…ええ」

やっぱりこの人は知っていたかと、イルカは苦笑する。恐らく紅も知っているだろうと思いながら、イルカは頷いていた。

「カカシの奴はまだお前のことを好いてるぜ」

その言葉に胸が抉られる。
微笑もうとしたが、それができないことに、自分も未練があるということを知らされた。

「知ってるか?あいつ今ずっと花街通いだ。ずっと家になんか帰っていねぇ。ま、昔はずっとそうだったからな。別段珍しいもんじゃねぇがよ」
「…そう見たいですね」

アスマに言われなくとも知っていた。カカシが不特定多数の女性と付き合いはじめていることを。
同僚の間でも、そのことが噂になり、うらやましがっていたのを思い出す。それに…

「昨日見ましたから」

所用で通らざるを得なかった花街で、カカシと女性が腕を組んでいた。そして、その女性に乞われるまま、唇を重ねていたところも。

見せ付けられているとわかっていた。

「お前もまだ好きなんだろう。なのに何故別れたんだ」
「………」
「お前の心が見えないって、あいつは言っていたぞ。あいつは、お前をわかってやれないと、苦しんでいた」

イルカは無言を通し、アスマは新しいタバコに火を付ける。

「あいつは…人を寄せ付けない所があった。けど、お前とつき合うようになって変わったんだ。柔らかくなったってのか、とげとげしさが消えたんだよ。その変化に俺らは内心喜んだよ、そして影響を与えたお前をすごいと思った。思ったのに…何故今になって突き放す」

咎める声にそれでもイルカは何も言わない。段々と苛立たしくなって来たアスマが、イルカを見る。

「俺のせいじゃありません。カカシ先生はもとからああいう人なんですよ。優しくて…明るくて。偶然それが俺と知り合った時と重なったんです」
「イルカ…!」
「アスマ先生。俺はそんな存在じゃないんです。…そんな存在になれる資格なんてない…」
「んだとっ!?巫山戯るなっ!資格ってなんだ!あいつと幸せになることに、そんなこと…」
「いるんですよ。俺には」

ぴたりと足を止め、イルカはアスマを真っ正面から見返した。

「俺、今から任務があるんです。…それでは」
「おいっ!待て!イルカっ!!!」

すうっと消えたイルカに声を荒げたがその声は虚しく、闇に消える。
一体何を考えているのか。
イルカの気持ちがわからなくて、アスマは苛立たしげに唇を噛んだ。



コンコンと、自分の部屋にいたサクラは、窓を叩く音に驚いた。そして、外にたたずんで手を振っている人物を見てなお驚く。

「いっ…イルカ先生っ!?」

がらりと窓を開ければ、すまなそうな顔をして、イルカは謝る。

「ごめんな?こんな時間に…ちょっと出てこれるか?」
「本当ですよ。今行きます」

窓を閉めて、部屋を飛び出すと、どこに行くのと問いかける母親に言葉を濁して家を出る。

2人は近くの家の屋根を拝借し、里を眺めていた。
ちらりと横目で見れば、イルカは袋を持っていて、サクラは眉を寄せる。

「任務ですか?」
「ああ。ちょっとね。長くなるかもしれないけど」
「…だから来たんですか?」
「ああ」

イルカは、里を眺めていた顔をサクラに向け、緊張しているようなサクラに苦笑する。

「約束守ってくれてありがとうな」
「そんな…私は…何もできなかったから。何も言う資格なんてなかったの」
「そんなことないよ。サクラ。俺の話を聞いてくれて本当に助かった。ずっと一人で抱えていたから、誰にも話せなかったから…俺にとってサクラは一つの救いのようなものだった」
「イルカ先生…」
「でもな。逆にサクラには辛い思いをさせた。だから謝んなきゃいけないと思うんだ。すまなかったな」

ぶんぶんと首を振るサクラの頭に、イルカは手を乗せ、ぽんぽんと軽く叩いた。

「だから、俺も約束を守るな。…カカシ先生とは別れた。原因は…俺だ。俺が先生を信じられなかったから、そして…俺が自分をさらけ出すことができなかったから」
「さらけだすこと?」
「…俺にはあの人に勝てる要素なんて何一つなかったから。あの人に勝ると思わなかったから…カカシ先生は…あの人と俺を重ねてみている。俺はあの人とは違うのに、あの人に勝ることはないのに」

でも、今ここにいるのは自分だと。
カカシの隣にいるのは、自分なのだと言い聞かせても。
不安は、苦しさは消えなくて。

「どうしても俺の本当の姿を見せられなかった…それにカカシ先生は耐えられなかったのだと思う…好きな人に信用されていないなんて。そんなの…苦しいだけだろう?」
「イルカ先生…」
「俺が一歩踏み出せば、違う結果になったのかもしれない。だけど、俺にはそれができなかった。本当の俺を知った時の先生を…見たくなかったから」

きっと、受け入れてなどもらえない。
もらえるはずがない。

それを知ったとき、彼は言葉もなく立ち尽くし背を向けるだろう。
自分の思い描いていた「イルカ先生」とは違う。

あの人とは違う俺を嫌悪して。

「…イルカ先生。私は、先生の言う意味がすべてわかっているわけじゃないわ。でも、本当に駄目だったの?」
「…サクラ」
「…もう間に合わないの?私は…カカシ先生が待ってると思っているわ」

もう一度、イルカが本当の意味で振り向いてくれることを、自分の気持ちを花街でごまかしながら。アスマの言うように、イルカを待っていると。カカシの背景を知らないながらも、頭の良いサクラは確信をついてくる。

やはり、この子の先見はすごい。
まだ、未熟ながらも、毎日カカシと一緒にいるサクラは、わずかな情報を瞬時に整理して答えを導き出してしまった。

ああ、やはりこの子は―――

「…イルカ先生?」

黙ったままのイルカに、サクラが不安そうに問い掛けた。
また自分は余計なことを言ってしまったのかと、落ち込む少女へイルカは首を振った。

そして、イルカは決心する。
この子に託すことを、そして ―――

「サクラ。今日来たのはな、約束を果たすためと…一つお願いがあったからなんだ」
「お願い…?」
「これを受け取って欲しい」

そう言って、イルカが差し出したのは色あせた紐。
プレゼントにしては、くたびれすぎている。サクラは手を差し出しながらも、その意味を掴みかねて困惑していた。

「サクラ、アカデミーの裏山にある、枝垂桜の木を知っているか?」
「え…はい。大きな桜の木ですよね?幹もしっかりしてるし、病気でもないのに一度も花をつけたことがないという…」
「ああ。サクラ、もし…サクラが忍として助けが必要になった時、その紐をその木に結び付けて欲しい」
「え…?忍として…?」
「ああ。そうすれば、必ず何かが起きるから…何か…」

サクラは手にある紐をじっと見て、頷く。何かイルカの様子がおかしい。
どうしてだろう、イルカが…
遠くに感じる。

「サクラ、ナルトを…よろしくな。調子に乗って人に迷惑かけることもあるが、お前がいれば安心だよ」
「え?」
「あ、勿論サスケとも上手くやれよ?お前の恋が実ることを願ってる。2人ともお前がいないと纏まらないからなぁ。大変だろうけど、サクラなら大丈夫だ」
「先生?」

いきなり何を言うのか。何か嫌な予感がして、サクラはイルカの服を掴もうとするが、それはするりと手を抜けてしまう。

「イルカ先生!」
「もう時間だ。行かなきゃ、じゃあな…サクラ」

ふわりと微笑むイルカは儚くて。
今捕まえないと永遠に消えてしまうような気がした。だが、サクラの手は届かなくて。

「イルカ先生!!!」

呼び声も虚しく、イルカはサクラの前から姿を消す。
じゃあな…なんて、まるで…

イルカが姿を消す際に聞こえて来たのは。
許してくれと言う贖罪の言葉…何故イルカがそんなことを自分に言うのかわからなくて、サクラは彼を見送りながら、知らずの内にイルカから貰った紐を握りしめていた。

さくら(2003.10.23)