あれから、サクラの目には何一つ変わっていないように見えた。だが、カカシがイルカのいる時間に受付所にいかなかったり、イルカとの会話にカカシが出てこなくなったり、小さな変化にサクラならずも、ナルトやサスケも気づいているようだった。 相変わらずカカシは眠そうな目で、自分達とともにいるが、時折気落ちした様子を見せる。まだイルカのことが吹っ切れていないのだと思うのだが、どうしたことかイルカにはそんな様子が見られなかった。 そのことに、サクラは約束通り何も聞かず、イルカが話してくれるのを待っていた。 だが、それに苛立ちを感じ始めていたのが、アスマと紅。 嫌いになって別れたのではない、そう知っているから尚更。 イルカの心を開けなかった自分を恥じ、イルカを開放することを選んだカカシ。彼の変化が好ましかった分、カカシを突き放したイルカの態度がどうしても2人には納得できなかったのだ。 しかし、変化は着実に現れていて、その変化をイルカが心待ちにしていることなど誰も知らない。 イルカは待っていた。その時がくる日を。自分で望んで受け入れられたその日がくることを…ずっとずっと。 「おい、ちょっといいか」 「はい?」 アカデミーが終わって、一人帰路についていたイルカは、自分を呼び止める声に足を止めた。そこにいたのは、今年のルーキーを受け持っている一人アスマ。 何か用だろうかと、はいと頷けば、アスマはイルカの隣に並び歩き始めた。 「…カカシと別れたんだってな」 「…ええ」 やっぱりこの人は知っていたかと、イルカは苦笑する。恐らく紅も知っているだろうと思いながら、イルカは頷いていた。 「カカシの奴はまだお前のことを好いてるぜ」 その言葉に胸が抉られる。 微笑もうとしたが、それができないことに、自分も未練があるということを知らされた。 「知ってるか?あいつ今ずっと花街通いだ。ずっと家になんか帰っていねぇ。ま、昔はずっとそうだったからな。別段珍しいもんじゃねぇがよ」 「…そう見たいですね」 アスマに言われなくとも知っていた。カカシが不特定多数の女性と付き合いはじめていることを。 同僚の間でも、そのことが噂になり、うらやましがっていたのを思い出す。それに… 「昨日見ましたから」 所用で通らざるを得なかった花街で、カカシと女性が腕を組んでいた。そして、その女性に乞われるまま、唇を重ねていたところも。 見せ付けられているとわかっていた。 「お前もまだ好きなんだろう。なのに何故別れたんだ」 「………」 「お前の心が見えないって、あいつは言っていたぞ。あいつは、お前をわかってやれないと、苦しんでいた」 イルカは無言を通し、アスマは新しいタバコに火を付ける。 「あいつは…人を寄せ付けない所があった。けど、お前とつき合うようになって変わったんだ。柔らかくなったってのか、とげとげしさが消えたんだよ。その変化に俺らは内心喜んだよ、そして影響を与えたお前をすごいと思った。思ったのに…何故今になって突き放す」 咎める声にそれでもイルカは何も言わない。段々と苛立たしくなって来たアスマが、イルカを見る。 「俺のせいじゃありません。カカシ先生はもとからああいう人なんですよ。優しくて…明るくて。偶然それが俺と知り合った時と重なったんです」 「イルカ…!」 「アスマ先生。俺はそんな存在じゃないんです。…そんな存在になれる資格なんてない…」 「んだとっ!?巫山戯るなっ!資格ってなんだ!あいつと幸せになることに、そんなこと…」 「いるんですよ。俺には」 ぴたりと足を止め、イルカはアスマを真っ正面から見返した。 「俺、今から任務があるんです。…それでは」 「おいっ!待て!イルカっ!!!」 すうっと消えたイルカに声を荒げたがその声は虚しく、闇に消える。 一体何を考えているのか。 イルカの気持ちがわからなくて、アスマは苛立たしげに唇を噛んだ。 コンコンと、自分の部屋にいたサクラは、窓を叩く音に驚いた。そして、外にたたずんで手を振っている人物を見てなお驚く。 「いっ…イルカ先生っ!?」 がらりと窓を開ければ、すまなそうな顔をして、イルカは謝る。 「ごめんな?こんな時間に…ちょっと出てこれるか?」 「本当ですよ。今行きます」 窓を閉めて、部屋を飛び出すと、どこに行くのと問いかける母親に言葉を濁して家を出る。 2人は近くの家の屋根を拝借し、里を眺めていた。 ちらりと横目で見れば、イルカは袋を持っていて、サクラは眉を寄せる。 「任務ですか?」 「ああ。ちょっとね。長くなるかもしれないけど」 「…だから来たんですか?」 「ああ」 イルカは、里を眺めていた顔をサクラに向け、緊張しているようなサクラに苦笑する。 「約束守ってくれてありがとうな」 「そんな…私は…何もできなかったから。何も言う資格なんてなかったの」 「そんなことないよ。サクラ。俺の話を聞いてくれて本当に助かった。ずっと一人で抱えていたから、誰にも話せなかったから…俺にとってサクラは一つの救いのようなものだった」 「イルカ先生…」 「でもな。逆にサクラには辛い思いをさせた。だから謝んなきゃいけないと思うんだ。すまなかったな」 ぶんぶんと首を振るサクラの頭に、イルカは手を乗せ、ぽんぽんと軽く叩いた。 「だから、俺も約束を守るな。…カカシ先生とは別れた。原因は…俺だ。俺が先生を信じられなかったから、そして…俺が自分をさらけ出すことができなかったから」 「さらけだすこと?」 「…俺にはあの人に勝てる要素なんて何一つなかったから。あの人に勝ると思わなかったから…カカシ先生は…あの人と俺を重ねてみている。俺はあの人とは違うのに、あの人に勝ることはないのに」 でも、今ここにいるのは自分だと。 カカシの隣にいるのは、自分なのだと言い聞かせても。 不安は、苦しさは消えなくて。 「どうしても俺の本当の姿を見せられなかった…それにカカシ先生は耐えられなかったのだと思う…好きな人に信用されていないなんて。そんなの…苦しいだけだろう?」 「イルカ先生…」 「俺が一歩踏み出せば、違う結果になったのかもしれない。だけど、俺にはそれができなかった。本当の俺を知った時の先生を…見たくなかったから」 きっと、受け入れてなどもらえない。 もらえるはずがない。 それを知ったとき、彼は言葉もなく立ち尽くし背を向けるだろう。 自分の思い描いていた「イルカ先生」とは違う。 あの人とは違う俺を嫌悪して。 「…イルカ先生。私は、先生の言う意味がすべてわかっているわけじゃないわ。でも、本当に駄目だったの?」 「…サクラ」 「…もう間に合わないの?私は…カカシ先生が待ってると思っているわ」 もう一度、イルカが本当の意味で振り向いてくれることを、自分の気持ちを花街でごまかしながら。アスマの言うように、イルカを待っていると。カカシの背景を知らないながらも、頭の良いサクラは確信をついてくる。 やはり、この子の先見はすごい。 まだ、未熟ながらも、毎日カカシと一緒にいるサクラは、わずかな情報を瞬時に整理して答えを導き出してしまった。 ああ、やはりこの子は――― 「…イルカ先生?」 黙ったままのイルカに、サクラが不安そうに問い掛けた。 また自分は余計なことを言ってしまったのかと、落ち込む少女へイルカは首を振った。 そして、イルカは決心する。 この子に託すことを、そして ――― 「サクラ。今日来たのはな、約束を果たすためと…一つお願いがあったからなんだ」 「お願い…?」 「これを受け取って欲しい」 そう言って、イルカが差し出したのは色あせた紐。 プレゼントにしては、くたびれすぎている。サクラは手を差し出しながらも、その意味を掴みかねて困惑していた。 「サクラ、アカデミーの裏山にある、枝垂桜の木を知っているか?」 「え…はい。大きな桜の木ですよね?幹もしっかりしてるし、病気でもないのに一度も花をつけたことがないという…」 「ああ。サクラ、もし…サクラが忍として助けが必要になった時、その紐をその木に結び付けて欲しい」 「え…?忍として…?」 「ああ。そうすれば、必ず何かが起きるから…何か…」 サクラは手にある紐をじっと見て、頷く。何かイルカの様子がおかしい。 どうしてだろう、イルカが… 遠くに感じる。 「サクラ、ナルトを…よろしくな。調子に乗って人に迷惑かけることもあるが、お前がいれば安心だよ」 「え?」 「あ、勿論サスケとも上手くやれよ?お前の恋が実ることを願ってる。2人ともお前がいないと纏まらないからなぁ。大変だろうけど、サクラなら大丈夫だ」 「先生?」 いきなり何を言うのか。何か嫌な予感がして、サクラはイルカの服を掴もうとするが、それはするりと手を抜けてしまう。 「イルカ先生!」 「もう時間だ。行かなきゃ、じゃあな…サクラ」 ふわりと微笑むイルカは儚くて。 今捕まえないと永遠に消えてしまうような気がした。だが、サクラの手は届かなくて。 「イルカ先生!!!」 呼び声も虚しく、イルカはサクラの前から姿を消す。 じゃあな…なんて、まるで… イルカが姿を消す際に聞こえて来たのは。 許してくれと言う贖罪の言葉…何故イルカがそんなことを自分に言うのかわからなくて、サクラは彼を見送りながら、知らずの内にイルカから貰った紐を握りしめていた。 さくら(2003.10.23) |