さくら

第2話:壊れた歯車



限界だったのだ。
言い訳にしかならない言い訳。
イルカは自分の半分の歳の少女に、その苦しみを負わせてしまう。
卑怯な自分。
愚かな自分。

…それでも、あの時彼女がそう言ってくれなければ、イルカは壊れてしまっただろう。

本当は、カカシに言えば解決すること。だが、怖くてできなかったから。


イルカは、この少女を、何があっても守ろうと心の奥底から誓ったのだった。
…そんなことを少女が望んでいないと知っていても。

自分の弱さ故に、落ちなくても良い苦しみの地獄に落ちた少女への贖罪として…




「イルカ先生はカカシ先生のことが好きなんですよね?そして、カカシ先生もイルカ先生が好きなんですよね?」

そう問い掛けると、イルカはあの悲しそうな瞳のまま、だがしっかりと頷く。そのことに、内心ほっとしながら、じゃあどうして…と続けたようとしたサクラは、イルカの小さな呟きにえ、と返した。

「でもカカシ先生の心の奥底に、ずっと住んでいる人がいる。あの人は気づいていないだろうけど、俺は…一生その人に勝てないだろう」
「イルカ先生…」
「知らないんだ。カカシ先生は。その人をどんなに好きか」
「ちょ…ちょっと待ってよ!イルカ先生!一生勝てないって…どうして?」
「その人はもう亡くなってるから…」
「え…でも、カカシ先生がそう言ったの?その人が好きだったって」
「聞かなくてもわかるよ」
「じゃあわかんないじゃない!イルカ先生の方が好きかもしれないじゃない!」

そうでしょう、そうに違いないと、確信をこめていったのにイルカの表情はサクラを裏切り続ける。

「言っただろう?気づいていないって」
「でも…!」
「カカシ先生はね」

ゆっくりとイルカは言葉を吐き続ける。それをサクラは、自分に言い聞かせているようにしか見えなかった。

「その人のことを話す時、すごい幸せそうな顔をするんだよ」

自分と一緒にいる時よりも、すべてのものが色あせて見えるぐらいに。

愛しそうに。

そういうイルカの顔が切なくて、切なくて、サクラはぼろぼろと泣いてしまう。

「ごめんな?サクラこんなことを言って…」
「違う!先生っ…私…ごめんなさい…偉そうに言って何も…」

頭に触れる大きな手。
いつも自分達を守ってくれていたこの手を持つ人を、誰か守って上げてくださいと。
お願いだから、悲しませないでとカカシに願う。

「先生…それでも私…カカシ先生はイルカ先生が大好きなんだと思うの。その人がどんな人か知らないけど、イルカ先生が負けてるなんて思わない」

願望だとか、慰めとかではなく、本当にそう思ったからそう言ったのに、イルカ先生の顔は全然晴れてくれない。ありがとうなと、逆の意味に取ったイルカを、サクラは少しだけ腹立たしく思った。

「本当よ!先生っ!私っ!!!」
「こんなところにいたんですか?イルカ先生…と、サクラ?」

本心だと告げようとした言葉は、思わぬ人物の登場によって遮られてしまった。

「あ〜邪魔…でしたか?」
「いえ、もう終わりましたから。な?サクラ」

今サクラに告げたものなどなかったように、微笑むイルカ。うんと、頷いてしまったサクラへとカカシがすまないような顔をした。
きっと、カカシはサクラの心配もしていたのだろう。一日中おかしかった、教え子のことを気にして。
その悩みを打ち上げている場面に登場してしまったのは、様子がおかしかったから。

それは、イルカにとっては幸い。
サクラにとっては…

「それじゃあ、受付があるから…」

今の話を終わりにしてしまったイルカに、それ以上何もいえなかったけれど。

「本当に…そう思うの」

カカシが首を傾げて、意味を問うようにイルカを見たが、イルカは微笑んでいるままだった。

「本当だから…!」

2人に頭を下げて、サクラは走り出す。
どうして、どうして信じない?
イルカは信じてくれないのだろう。
私の言葉を、カカシのことを。
お願いだから、決めてしまわないで。
一人で勝手に決めないで。

今度それを言う時があったら、そう言いたいとサクラは思った。
だけど、イルカは信じなかった。そして、一人で怯えてどんどんと思い詰めていった。



…最近イルカの様子がおかしいことには気づいていた。
いつも一緒にいるのに、何かが埋められていない。
自分の隣でイルカは笑っているのに、その笑みの中に空虚を感じてしまうのは何故だろう。

愛していますと呟いて、俺もですと答えるけれど。
その後見せる、悲しそうな笑みは何なのだ。

何か悩み事があるんですか?
そう聞いても、何もと言って笑うだけ。
無言の拒絶。

それにイルカは気づいているのだろうか?


愛しています、好きなんです。
彼の心に届くように、何度も何度も告げているのに、彼の心には響かない。

どうして?

最初はこんなんではなかった。
好きだと自覚して、そう告げて、イルカも受け入れてくれたあの時は、確かに互いの心が通っていて、幸せだったのに。
日がたつにつれて、イルカの心は離れていって。

いつからこんなことになった?
何かきっかけがあったのに、見逃した?

だが、聞いてもイルカが答えてくれる日はなくて。

悩んで、悩んで…



「何、辛気臭い顔してんだよ」

上忍達の待機所に座っていたカカシに、ぷかりと煙を吐きながらアスマが呟く。
どさりと、カカシの横に座って、アスマはタバコの煙を満喫していた。

「イルカと喧嘩でもしたか?」
「…んなはずないでしょ」
「なら、何なんだよ。その顔。イルカを落とした時、気持ち悪いぐらい幸せそうな顔してたくせに。半年も持たなかったのか?」
「るさいね!そんなわけないだろ!」

そう反論したものの、カカシには勢いがなくて、アスマは眉を寄せた。

(…何かあったのか?こいつら)

めんどくさいことには首を突っ込みたくないアスマだが、半年前と違いすぎるカカシの様子を見ては、つい声をかけてしまう。
…半年前、初めてイルカとあったカカシは、ぼーーっと窓の外を見ていた。なんだこいつの態度は?と紅と顔を見合わせたものの、嫌な予感もしてすぐにここから立ち去ろうとしたのに。

「イルカ先生かぁ…いいなぁ…」

頬を染めて窓を見るカカシに寒気がしたものだった。
それから、密かな猛烈アタックが始まった。
イルカの出勤と退出時間には必ず顔を見せ、うまく行けば一緒に食事。
さりげなくナルトのことなどを出して、イルカと話をする姿に、写輪眼のカカシも変わるんだなぁと、呟いたのは誰だったか。
そして、イルカの影響を受けたのか、それまでとっつきにくかったカカシの態度がどこか柔らか味を帯びてきて。人はこんなに変わるものかと密かに驚いた。
そして、カカシにこれほど影響を与えたイルカという人間を。

すごいなと、アスマは思った。


そんなことを一ヶ月続け、イルカからYesの返事を貰えたと喜ぶカカシに、おめでとさんと苦々しい顔で、けれど内心嬉しく声をかけたのに。


「じゃぁ、何なんだよ」

苛立たしげに聞くアスマへ、カカシが呟いた。

「あの人の心が見えないんだよ」

とため息をついたカカシは、とても疲れているように見えた。



このままじゃ駄目になる。

そう思っていたのは、イルカやカカシだけではなかった。
サクラやアスマなど、2人のことを知っている者は、別の意味でも彼らが壊れるのではないかと危惧していた。
互いに思いあっているはずなのに、どこか噛み合わさっていない歯車。
相手への思いと、自分の気持ちが重ならない苛立ち。
小さなすれ違いが、大きなヒビになっていく。


「このままじゃ、駄目だよイルカ先生」

サクラは、もう何度目になるかわからない言葉をイルカに告げた。
真実が自分を傷つけるのを嫌って、イルカは「あの人」の存在をカカシに聞こうとはしない。
その人のことをどう思っているのか、イルカの言う恋愛感情で好きということなのか。
誰かを好きになることは、同時に臆病にもなるというけれど、それでもイルカがここまで引くのは何故だろう。

「駄目だよサクラ。俺には聞けない」
「どうして?」
「だって…それが本当だったら俺は…」
「だったら!イルカ先生その人のこと忘れてよ!自分が一番なんだって叫んでよ!」

真実を知りたくないなら、目を逸らして聞こえないふりをして。
真っ直ぐなイルカには、できないことをサクラはするように願う。
案の定、首を振ったイルカだが、だったらカカシにそれを聞いて、すっきりさせて欲しいと思うのに。

「だったら、信じてよ!カカシ先生を信じてよ!好きだって言ってくれるカカシ先生を信じて!」

そう言っても、イルカは曖昧に笑って仕事があるからと逃げる。

(イルカ先生らしくないよ…)

ぱしゃぱしゃと、ふくれながら、川の水に浸した足を動かす。その子供らしい行動にイルカは笑みを浮かべながら、明日行われるアカデミーの演習の下調べを続けていた。いつの間にか、こうやってイルカの話を聞き、自分が意見を言うようになってきた。
サクラが偶然このことを知るまで、誰にも言えなかったと言っていたイルカは、前より少し明るくなったように見える。あんな思いを一人で抱えるのは辛かったのだろう、だが、サクラは話を聞いてあげることはできるものの、解決策などは提示してあげられない。今、サスケの片思い中だから、気持ちがわかる所もあるが、それからどうすればいいというのは、経験がなくてわからない。

(私って何でまだ子供なのかなぁ)

恩師のために何かして上げたいのに、彼の背中を押すのも中途半端で、結局見守るしかできない。
子供というのは、これほど無力なのだろうか。

(あ〜もう、もうっ!)
「サ…サクラ?」

ばしゃばしゃと、足の動きを早くさせたサクラに、イルカは驚いて振り返る。水がかかろうが、跳ねようが一心不乱に水を蹴り上げるサクラを見て、イルカは苦笑するしかなかった。

「先生っ!本当にこのままでいいのね!?」
「え…ああ」
「本当に本当ねっ!」
「ああ」

きっぱりとそう言って笑うイルカに、サクラはふうっと息を吐いた。くるりと振り返れば、この曖昧な状況を続けることを望んでいるイルカを見て、サクラはぶうっと膨れる。

「カカシ先生が気づいてないわけないと思いますけど?」
「だったらそれでいいんだ。俺はすべて受け入れるから」
「…何それ。先生それって…」

もし、別れようと言われれば。

別れると言うのか?

「あの人を…苦しめたくないから」

何よりも大切な、思い出の中にいる人をイルカが嫌っているなんて。
そのせいで苦しんでいたなんて、気づいて欲しくないから。

「…変。絶対それって可笑しいよ。先生は…」
「…サクラ、もう終わったけどどうする?一緒に何か食べに行くか?」

…また遮られる。
サクラが言いたいことを、イルカが聞きたくないことを。

イルカ先生は、カカシ先生のせいにして逃げている。
自分が傷つきたくないから、そうやって。

「…私は修行して帰る」
「そうか、じゃあな。あまり遅くなるなよ」

手を上げて、皆から愛されている笑みを見せて、イルカは去る。

「…私って駄目だなぁ…」

本当に駄目だ。
サクラは泣きたくなってきた。



「イルカ先生」

その夜。いつものようにイルカの家にやってきたカカシは、玄関に上がらず深刻そうな声でイルカを呼んだ。

「?どうしました?カカシ先生」

台所にいたイルカは、玄関に佇むカカシに首を傾げて、彼の前に立つ。カカシの腕が伸ばされ、イルカは抱きしめられた。

「カカシ先生?」
「俺は。貴方が好きです。誰よりも、何よりも貴方が好きなんです」
「…はい」
「俺は、貴方のすべてを知りたい。今日貴方が何を見て、何を感じて、何を思っているか。貴方のすべてを俺は欲しい」
「カカシ…」
「だから、教えて下さい。今貴方が何を考えているのか、俺に教えて?」

2人の間に隙間が出来て、カカシとイルカは視線を合わせた。

それは、最後の賭け。
イルカが心を開いてくれると願う、頼りない細い糸。

イルカもそれを感じて、カカシを黙って見つめ返す。

ここで、口を開けば…
胸にわだかまる思いを口にすれば、まだ間に合う。
どこかで、サクラの声がする。

本当にいいの?

良くない、良いわけなんてない。
ようやく手に入れた大切な人を、自ら手放すなんて、できない。
だけど、体は口は、動かない。脳のどこかで、イルカの行動を制している。

お前は本当の自分をさらけ出せるか?
そして、それが受け入れられると思っているのか?

第三者のような、自分の声にイルカは怯えた。


あんな自分をこの人は受け入れてくれる…?


血にまみれすぎている自分を。
自分のことを、太陽だと言っているこの人に。


受け入れられるわけはない…
この人が好きなのは…

アカデミーの教師で、しがない中忍で、いつも笑みを絶やさない。
「イルカ先生」なのだから。


本当の自分を知られることと、カカシを失ってしまうこと。
どちらが苦しい…?

だから、イルカはただ笑った。悲しそうに小さく。泣きそうに、そっと。

するりと、腕が解かれて。カカシの冷たい唇が触れる。

「…どうして、何も言ってくれないの?俺は…貴方のとってなんだったの?」

くるりと背を向けたカカシが、ごめんねと小さな声で言った。
貴方の安らぐ存在になれなくて。
苦しめるしかできなくて。

ぱたんと閉じられたドア。

それが別れの言葉。


「謝るのは…貴方じゃない。貴方なんかじゃないっ…!!!」

悪いのは自分。
勇気がなくて、臆病な自分。
逃げることしか考えていなかった…自分。

「っふ…くっ…」

あんなにサクラが忠告してくれたのに、何度も背を押してくれたのに。
だけどできなかった。できなかったんだ。

どうしても、過去の自分を思い出すと、この手が血にまみれすぎているこの手が。

幸せなどになる権利がないと言われているように思えて。

どうしても…できなかったんだ…

さくら(2003.10.16)