背を曲げて前を歩くカカシは、一度もイルカを振り返らない。当然ついてくるものだと言わんばかりの態度に、まず人の了承を取るのが先だろうとイルカは心の中で毒づくが、あの男がそんなことを気にするわけもないことはわかっていた。 (…無防備な背だな) 里の中だと思って油断しているのか、イルカの前を歩くカカシは殺してくださいといわんばかりの隙を見せている。今自分があの背にクナイを突き立てたら、この男はどんな顔をするだろう。そんな暗い欲望にも似た思いを沸き立たせ、イルカはふっと唇を吊り上げる。 「…好き嫌いはないよね。アンタ」 「えっ」 そこへタイミングを計ったように、カカシに問いかけられイルカは慌てて顔を上げる。だがカカシは前を向いたまま問いかけてきたので、笑みを浮かべたイルカの顔は見られなかったようだ。 「え、はい」 思わず正直に答えて、違うだろう自分!と内心突っ込みを入れる。カカシは良かったと相変わらず感情のこもらない言葉でそう言い、目の前の戸をガラリと開けた。いつの間にか店に着いていたのだ。 「いらっしゃいませ〜」 着物を着た女性が、入ってきたカカシとイルカに笑顔を浮かべながら頭を下げる。カカシの名前を聞くとお待ちしておりましたと、彼女は中へと案内し始めた。その店は、和の雰囲気を漂わせた店で、一つ一つの席を竹を使った仕切で区切っており、それがとても落ちつかせる。照明も薄暗く、何時もイルカが行く、仲間と大勢で楽しむ居酒屋とは全く違う。女性は二人を奥の座敷へ導き、少々お待ち下さいと手をつき去っていった。 「…高そうな店ですね」 第一声がそれかよと思いつつ、さすが上忍の行く場所は違いますねという嫌みを籠めて言うとカカシは僅かに肩を竦め、メニューを差し出した。この上忍と食事などするのは冗談じゃないが、ここまで案内されて結構ですと言うのも何だか悔しく、イルカは少し乱暴にそれを受け取るとメニューを開いた。所が、メニューの下に書いてある値段を見て驚く。 「格式張った所は嫌いでしょ。アスマのお勧めだから、気に入るんじゃない?」 「え…」 メニューの値段は、何時も行く居酒屋と大して変わらなかった。こんな高級感を漂わせたところが、こんな値段で味わえるなんてと、イルカは素直に頷く。そして、イルカに気を使って店を選んだカカシの配慮にも。 (こんなことができたんだな) ふぅんとパラパラとメニューを捲りつつ、ありがとうございますと頭を下げて見せる。今度誰かに教えてやるかと思っていたら、ただしとカカシが付け加えてきた。 「ここは紹介者が居ないと入れないらしいよ。そして、その客がこの店の雰囲気を合わないことをした場合、容赦なく叩き出されるし、紹介した奴も二度と入れないらしいから気をつけることだね」 アンタなら誰かれ構わず紹介しそうだからと言われ、イルカはむっと押し黙る。だがイルカが教えようとしていた友人達は、静かに飲むより騒ぐ方が好きだ。この店に合わないことは確かだろう。 「…ご忠告感謝します」 「そう。それは良かった」 イルカの方も見ず、ぼやっとした顔で答えるカカシ。その後は女性が来るまで会話もなく二人は押し黙り続けた。 (…この男にペースを取られるのは、思いっきり気に入らないな…) そう思いつつ、イルカは料理に次々と箸を運び続ける。注文が終わった後、早速話をと切り出せば食べ終わってからだの、料理が冷めるだの何だかんだ言われて、まだカカシの目的が何なのかイルカが知ることはできなかった。しかもカカシはちびちびと酒を飲み続け、料理にはあまり手を付けないので、残しては勿体ないと思うイルカが食べ続けるしかないというのも、気に入らないことの一つだ。 カカシは注文がすべて揃うと、何の躊躇もなく口元を隠していた布を降ろした。ぎょっとしたイルカは慌てて目を反らしたが、カカシからは気にするなとも、見ない振りをしてくれとも、何も言わない。今まで隠していたものを見せられて、相手がどう反応すれば良いのか困るということを、この男は知らないらしい。どこまでも自分勝手で、不遜な男。イルカは眉を潜めて、彼の顔を見ないよう料理を食べ続ける。 「…アンタさぁ」 ぽつりと呟くように話しかけられ、イルカは箸を運ぶ手を止める。じっと見つめてくる目にいよいよかと居住まいを正すと、カカシはコップに残っていた酒を飲み干し、再びイルカへを視線を向けてきた。 「…何時までアカデミーの先生やってるの?」 「私のことなど気にされる必要もないと思いますが」 「まぁね。アンタが今度どうなろうか、俺は知ったこっちゃないよ。でもね、アンタ好きじゃないでしょ」 「……何がですか」 むっとした顔でカカシを見つめ返すも、イルカの心には焦りのようなものが湧き出ていた。聞き返したくなどなかった。だが、ここで聞き返さないと話の流れが可笑しくなる。まるで心を覗かれているような不快感。ぎゅっと膝の上で拳を握ると、カカシは沈黙の後、別にいいけどねと続きを口にすることはなかった。 「たださぁ一言言っておくよ。最後なんて生ぬるいことは言わない。決めたものは永遠に、墓場の下まで持っていくんだね」 「…どういう意味ですか」 「そんなのいちいち俺が説明すること?イルカ先生」 この男は感づいている。しかしそれに気付かせてはならないと、イルカはもう一度どういう意味かと問いかけた。カカシが吐いた小さな溜息は、イルカを嘲っているように感じられ、わからないならいいと呟く。ごまかせたかと、力を抜いた瞬間向けられた不意打ち。 「永遠に笑いなよ」 場が凍る。 ピシリと氷が割れるような音をイルカは聞いた。だがそれしきのことで自分のすべてをさらけ出すほど、イルカは愚かではない。 「勿論ですよ。貴方以外になら喜んで」 奇妙な沈黙が流れ、カカシは再び酒を飲み始めた。もう話は終わりだろう、そう感じたイルカは場を辞すことを述べると、カカシは引き留めもしなかった。部屋の襖を閉じ、暗い店内の道を歩く。女性のありがとうございましたという声を聞き、それに礼を返しながら外に出る。外は月が煌めく夜だった。その下をゆっくりと歩き……イルカは店の方を振り返る。 その顔を見たら、気の弱い者は一瞬で心臓を止めてしまっただろう。鋭利な刃物よりも鋭く、極寒の地よりも冷たい眼差し。実際、許されるならばイルカは今すぐカカシを殺しに行っただろう。 自分の心に土足で入り込んだあの男。 そして忠告という命令を自分に下したあの男。 「俺に喧嘩を売ってただで居られると思うなよ」 嫌な笑みを浮かべてイルカは闇夜に消える。それに気付いた者は誰も居なかった。 一人で酒を飲むカカシは喉の奥で笑う。氷が解けたカップを眺め、今し方まで目の前に居た男のことを思い出しながら。 「嘘が下手だねぇ…あの先生は」 必死で表情を取り繕うとしていた…いや、カカシ以外なら誰も気付かなかった筈。イルカの目に一瞬浮かんだあの感情は… 「俺もしかしたら殺されちゃうかもねぇ」 誰かが聞いていたらぎょっとするような台詞を言いながら、それもいいかもしれないと思う。 「それも楽しいかもね…いい加減暇だったし。あ、でもこんなことをしたらクオンに叱られるかもねぇ」 まぁばれなければいいかと呟いて、カカシは残っている料理を食べ始める。焼いてある魚も、湯気を立てていた煮物もすべて冷たくなっていたが。それすらも気にならないほど、カカシはご機嫌だった。 黒揚羽(2005.10.26) |