ずぶりと、泥の中から生まれる手。 いつもいつも自分を引きずり込もうと待っている。 そして、その中が相応しいと自分も知っている。 ぴりぴりとした気配がイルカの周りを漂っていた。彼を前にしている火影は、イルカの状態の危険さを肌で感じ取り、喉を唸らす。 (…またやりおったのか) 昔と違い、最近では落ち着くようになったイルカをここまで不機嫌にさせる人物はただ一人。彼が何故そこまでイルカを毛嫌いしているのか、火影もわかっているわけではないが…原因は知っている。 (…何を考えているのかのう) 行動を共にすることが多いアスマに尋ねても、カカシの真意はわからないらしい。アスマから見てもイルカは味方にはなっても、敵にはならぬと言えるようなのだが。 「…火影様」 「わかっておる。その時はそなたにも参加してもらう良いな」 「はっ」 ようやく火影から承諾を貰ったイルカは一礼すると消え去った。 任務が欲しい。突然現れたイルカは火影に迫り、今すぐにでも任務を奪い取って出ていってしまいそうだった。それを何とか宥め、近日起こるであろう任務の参加で手を打ったのだが… 「どちらも厄介な奴らよの」 火影は深い溜息とともに呟いた。 任務に出られる。 それを確約されたイルカは、心の中で安堵していた。闇の中に紛れて、この血を染めて敵を貫く。困難な任務になればなるほど感じる死の緊張感を、イルカは切望していたのだ。 カカシと会った後、自分が何をしていたのかよく思い出せない。気付ば自宅の玄関に立っていた…そして、朝が明けると同時に火影の元へと赴いた。 まだ早すぎるアカデミーは、子供どころか教師さえ居ない。いつもは五月蠅い子供の声と、そこら中人の気配が溢れているのに、時が違うだけで別の姿を見せる学舎。 …それは自分とて同じだろうが。 疲れた顔をしている。 鏡を見なくともわかる自分の顔。疲れている…確かにそうだ。毎日毎日笑みを浮かべて、イルカ先生を装って。早くこんな生活から抜け出したいのに、火影はそれを許さない。ここに居ろと、里を見守れと、目で訴える。 何も考えない殺戮人形になれれば、どんなに幸せだろう。 そんな危ない思想に向かっているのは…少しやばいのかもしれない。 (…サクラに言ったら怒られそうだ) 引きずり込まれそうになる自分をぽんぽんと怒る少女。よくそこまで怒れるものだと、逆に関心するぐらいだ。しかしそれに救われている自分も知っている。もう一人の少年シカマルとともに。ただ生きてくれることを望んでくれる少年。いつも自分を見て、必要な時に必要な言葉を紡ぐ。歯止めが利かなくなった時、ブレーキとなってくれる。 あの二人に会ったことが、この自分に取って最高の幸せであるとイルカは思う。 「…お前達の為なら…どんなことでもできる」 すべてを欺き耐えることさえ。 できるだろう。 ふっと小さく笑って、イルカは窓の外を見た。その瞬間ざっと変わった顔。 完全に気配を断ち、窓の正面から逸れ外を除く。そこには、朝日を背にしゆっくりと歩いてくる二人の姿。 アスマとカカシ。任務が終わった所なのか、彼らの気配はどこかのんびりとしている。 朝から嫌なものを見た。イルカが小さく舌打ちしていると、途中でカカシは止まりアスマだけがこちらに向かって来た。 (…報告書か) その役割を押しつけられたアスマは、どこか苦い顔をしていたが、カカシはそれを悪いと思っていないようだ。 今日も子供達の任務だというのにご苦労な。 鼻で笑い、その場を離れようとしたが、立ち止まったまま動かないカカシを怪訝に思う。見上げているのは空。少しづつ里を染める太陽をじっと見て。カカシの腕が少し持ち上がる。 指が曲がる。その仕草はまるで…太陽を掴むようで。 だがすぐに手は下ろされ、カカシは拳を握りしめた。まるで、その行為を愚かだと己に言うように。 最後にもう一度太陽を見た後、カカシは歩き始めた。様子を見ていたイルカに気付くことなく消えていった。 いつも人の神経を逆撫でる態度と違う彼を訝しげに思いながらも、イルカは出勤してくる同僚と顔を合わせるために、職員室へと向かっていった。 イライラする。 最近の心情を聞かれれば、そう答える。だが、いつもと違うのはその対象が別の人物ということだ。 「っくそっ!!」 腹立ち間際にクナイを放てば、茂みの中からくぐもった声が聞こえる。 (仕留め損なった…!) 「ぐわっ!!」 振り返ったクオンの後ろには、呆れた気配を漂わせた暗部が一人。声に出されなくともわかる…何をやっているのかと。 任務に集中できない自分。これでは、危なくて任務など出せぬと、暗部に身を置くことを良く思っていない火影が言ってきそうだ。 あの日から、クオンの脳裏に一人の人間が焼き付いている。圧倒的な力を持ち、己を未熟だと告げた暗部。 火影の影【常世の番人】 あの男が言った言葉が許せない。 里で飼え。所詮わがままな犬にしかならぬ奴だと受けた屈辱。未だに思い出しても腸が煮えくりかえる。 戦って見たいと言ったのが悪かったのか、彼のことは一切話さない火影。カカシとアスマを焚きつけて、情報を集めるよう言ったのだが、彼らは積極的に関わり合いになりたくないのか、やる気がない。 「帰るぞ」 倒した敵が最後だったのだろう。 さっさと姿を消す暗部にクオンは仕方がなく追っていく。里に戻る数時間、二人は無言で駆け抜け、里に入ったと同時に別れた。名前は知らないが、時々組む暗部はクオンの報告嫌いを心得ているようで、何も言わずとも勝手に行ってくれる。クオンはそのまま家の屋根づたいを走り、辺りに誰もないことを確認しながら、念を入れて近くの森を回っていこうかと枝に飛び移った瞬間。 覚えのあるチャクラ。 面の下で眉を潜め、気配を完全に消したままその方角へと顔を動かす。だが、気付いたのはあちらも同じだったらしく、その場所で止まりこちらを眺めていた。 (…アイツか) 始めは喧嘩をふっかけて来て、次は綺麗に無視してくれた。【常世の番人】の次ぎに気に入らない相手だが、数日置いて冷静になった頭は、それは向こうも同じだと考えつくに十分で、クオンは視線を合わせるた後、顔を背ける。 (さっさと帰って寝る。明日はまたかったるいんだし) トンと枝を切り、クオンがこの場を離れようとしたが、進路を塞ぐようにあの忍びが立ちふさがった。 「何のつもりだ」 この忍は、自分に害をなさなければ人と関わろうとしない忍だとクオンは見抜いていた。だからこそ、僅かに燻った憤りに目を瞑り、この場を立ち去ろうとしたのに、何の用があるのかわざわざ近づいてくる。 この前は目もくれなかった癖に。 クオンは不機嫌なチャクラを隠しもしないで、彼を睨み付ける。だが、クオンごときのチャクラなど、意にも返さぬようように、彼は無言でその場に佇み続ける。 「何だよ。俺さっさと帰りたいんだけど」 言葉に刺はあるが、以前会った時の噛みつくような気配はない。忍はそれを感じ取ったのか、少しだけ肩の力を抜いた。 「付き合え」 「……は?」 クオンは忍を見返し、一体こいつは何を言うのかと頭を疑った時、それに気付いた。 「……てめぇ…人が任務帰りだってのに、巻き込むな!」 「それにしては余裕がありそうだが」 「くっそ…!!」 ざぁぁぁと森以外の気配が満ちる。 里を守ってる暗部達は一体何をやっているんだ。こんなに侵入させやがって。 ワザとここに追い込まれたのを知らぬクオンは、素早く武器を確かめ戦闘態勢を取る。それに倣った忍は何も見えぬ闇の中をじっと見つめた。 「行け」 「…てめぇ…これはお前の仕事だろうがっ!俺に命令するなっ!!」 そうは言いつつも、すでに動き出しているクオン。飛び上がったと同時に宙で回転すると、それを追うようにクナイが飛んでくる。 (五…か) 任務帰りの興奮治まらぬ精神と、動き足りなかった体。その反動の為か、クオンの身はいつも以上にチャクラを漲らせている。クオンが得意とするのは、体術を交えた戦闘だ。己の足で走り、その手で敵を裂く。殺意に反応する体を使うことが一番好きだった。だからと言って、術が不得意な訳でもなく、不本意ながらも術を教わったカカシから言わせれば、一流の仲間入りだと言えるらしい。 基本的な術は勿論知っているがクオンはあまり好きではない。どちらかと言えば、変わった術や、暇な時に作った術を試す方がより戦闘を面白くさせると思っている。 (景気良くいくか) 面の下でくっと笑い、印を切る。 見たこともないそれに、一斉に敵が警戒したが、それごときで防げる筈はない。 (何しろ『写輪眼のカカシ』直伝だ) コピー忍者と言われているカカシの必殺技【雷切】は木の葉でも有名だが、彼クラスの忍がそれだけしか持っていない筈がない。姿も言動も巫山戯た奴だと見られがちだが、戦闘に対する姿勢は慎重で、決して過信や慢心を見せない。 そして、滅多にないが…本気になった時のカカシは、クオンでさえ近づきたいと思わない。 クオンの手の平から、小さな円の青い光が浮かび上がる。クオンはそれを掲げ、空に放り投げる仕草を見せた。 敵は身を固くし、ばっと四方に散り身を潜めたが、いつまで待っても術が発動する気配はない。 不発か。 クオンの背後に降り立った忍は、期待した自分の愚かさを責め、密かに仕掛け終わったトラップを発動させようとした時、クオンが呟いた。 「死にたくなかったら動くなよ」 そう言ったクオンの声は、笑いに包まれていて。 動かない二人に向かって、敵が飛び出してきた瞬間。 黒い空の中、円が広がり。 「【氷雨】」 クオンの合図とともに、氷の雨が降った。 黒揚羽(2004.9.5) |