闇の飲み込まれた森の中、聞こえるは野生の息づかいのみ。イルカは月の光さえ射し込まぬ空を眺め、自分を包み込む闇に安堵していた。 「…サクラ?」 くうくうと深い眠りに入っている少女。久しぶりに気合いの入った術の講義に彼女は地面に横たわり、小さな寝息を立てていた。最近はお洒落などに目覚め、汚れなどを仕切に気にかけるようになった彼女が、それすら忘れて深い眠りについている。 「…調子に乗りすぎたかな」 起きていれば恨めしげな視線を向けられただろう。だが、強くなりたいと願う少女は不満を言わない。イルカが一歩サクラに近づくと、彼女の周りを囲む動物たちがぴくりと動く。 それはサクラと契約している動物たち…それらの殆どはこの森に住む半野生動物たちだ。長い間人の手が入らなかったからか、動物たちは独自の弱肉強食の世界を創っていた。凶暴で、プライドが高く、自分の縄張りを侵すものを絶対に許しはしない。無論、その報復は死だ。 サクラに寄り添い、眠っているかに見えるが、彼らは一挙一動イルカの動きに聞き耳を立てている。時々動く耳や、僅かに引っ込めた前足。ぴくりと上がった尾。もし、サクラに危害を加えよう、一度でもそう思ったら、彼らは容赦なくイルカに襲いかかってくる。 「サクラ」 サクラの前に身を屈め、もう一度名を呼んだが、やはり反応は示さない。困ったように首を傾げると、一番体の大きな動物が顔を上げて、イルカを見返した。 「どうしようか」 問いかけるように声をかけ、サクラの頭を優しく撫でる。そのイルカの手をじっと見ている動物たちは、そのせいでサクラが起きないか、冷や冷やしているようにも見える。 例えサクラに害をなそうとしなくとも、動物達は自分以外の誰かが彼女に触れるのを嫌う。まるで自分達こそが、彼女の一番なのだと強調するように、他者が傍に寄るだけで牙を剥くのだ。本当は、自分と同じく契約している動物達も気に入らないに違いない。だが、そんな態度を見せれば、サクラが嫌がることを知っているし、彼女を守りたいという気持ちは同じという面で妥協しているのだろう。そんな中で、動物達の敵意に曝されず、サクラに触れられるのはイルカとシカマルだけ。 何故ならば、この二人は彼女から絶対の信頼を受けている者であり、動物達はその強さに一目置いているから。 「でも、明日からまた任務だろ…この森から行かせるわけにはいかないんだ」 禁忌とされるこの森。誰かに見られるというへまをするサクラではないが、用心深さを持っていることは必要だ。そんなイルカの気持ちがわかったのか、動物達は不承不承の顔で一匹、一匹と立ち上がっていく。 「グゥ」 「わかってる。起こさないように送る」 最後の動物が森の中に消えるのを見送って、イルカはサクラを抱えると走り始めた。 「ふわぁぁ」 眠たげな声を出し、我が家へと向かってのんびりと歩いていたカカシ。初顔合わせの暗部達との任務が終わった後、案の定久遠は火影の元へと駆け込み、饅頭の箱を見て憮然としていた。アスマ一人に任せたのが悪かったのか、ついでとばかりに説教を喰らい、肩慣らしにもならない任務に駆り出されたカカシは少々機嫌が悪い。 (これも皆、あの暗部達のせいだよね~) と、勝手に追っていった癖に責任転換をしているカカシだった。そんな時に、見知った…というより気付きたくもなかった気配を感じ取る。 (…なんでこう、最後の最後に) 夢見が悪くなりそうだ。 そんなことを思いながら、そう言えば話があったことを思い出し立ち止まる。癖というより習慣で気配を完全に断っていたカカシに、近づいて来た人物が道を変える暇はなかった。 「…カカシ…先生」 「…こんばんわイルカ先生」 戸惑ったようなイルカとは裏腹に、カカシの声は友好の欠片も見つからなかった。困惑しているイルカが立ち止まると、カカシの視線がその腕に突き刺さる。 「…どいういうこと?」 イルカの腕の中、ぐったりとしている少女。カカシが受け持つスリーマンセルのくの一。 ギンッとカカシから立ち上る殺気に、イルカの体がびくりと揺れる。 「説明してくれる?」 そう問うカカシの視線は冷たい。 まるでこんな目に会わせたのがイルカだとでも言うように… 「さ…先ほど、帰り際に会って…修行の帰りだと…」 「ふぅん。ま、いいや俺が置くって行くから」 さっさとイルカとサクラを引き離したい。そんな態度が見え隠れのカカシ。差し出す腕に少女を渡せば、カカシはくるりと背を向けた。 「ご面倒をオカケシマシタ」 「…いえ…」 感謝の気持ちなど、微塵も込められていない台詞。何を言って良いのかわからず、イルカは何度も口を開け閉じていた。だが、結局は言葉にならず、その場に項垂れる。 「アンタもさっさと帰ったら?明日も早いんでしょ」 「……はい。失礼します」 さっさと消えろ。 無言の命令にイルカが従うべく、走り出そうとした瞬間。 「ご苦労なことだね」 「え?」 「偽物の顔」 すうっと何かが冷えていく。 風の音も、揺れる草木の音も。何も聞こえない。 その場のすべてが静まりかえる。イルカの耳から消えていく。 誰もいない、何もない。 闇。 「……何様だ。あの男」 底冷えするような瞳。 すべてのものが恐れ、息を殺す。風も水も葉も虫も。 凍り付くほどの殺気が満ちる。 お見通しなのだと、見下した目で見るあの男。 絶対の強者だと自分を疑わないあの男。 里からも他国からもそのことを認められているあの男。 人の逆鱗に敢えて触れてくるあの男。 「…殺してやりたい」 僅かな音に紛れ、消えてしまいそうなほど小さく呟いた。その囁きとも思える声。しかし、だからこそ、この場に少年と少女がいればわかっただろう。 イルカの本気を。 本音を。 するりと、結わえている紐を解く。ばさりと黒い髪が肩に落ち、ようやく吹き始めた風が揺らす。 気に入らないならば、構わなければいい。 こちらに近づいてこなければいいのに。何故あの男は、暴こうとする。 「…苛々する…本当に…」 あの首にクナイを突き刺したらどうなるだろう。切り裂いて、あの森に放り投げたらどうなるだろう。 「何やってるんすか?先生。殺気丸出しで」 「…シカマル」 「サクラとの修行は終わったんですか?ったく…火影様も変な時に呼ぶんだから…」 そのせいで、イルカに見てもらえなかったと小さな溜息を吐きながら、で?と唐突に現れたシカマルは、こんな場所で本性を出しっぱなしのイルカへと顔を向ける。 「見られたら不味いんじゃないすか?」 「…もう俺の任務は終わっている。もうあんな茶番はごめんだ」 誰からも慕われるイルカ先生など。 幻想の産物。 忍ともあろう者に、愛想良く、誰からも好かれ、挙げ句の果てには優しいなど。 そんなことを言われる忍が本当に居ると思っているのか。 「…先生」 「俺はもうごめんなんだよ。あんな無防備に近づいてくる子供も、人を勝手に作り上げている周りにも、偽物の俺に満足して、当たり前だと決めつけて。危険もない、血の臭いもしない、死という概念からかけ離れていくあんな場所など…俺の居る場所ではない」 ずぶずぶと足が沈み込んでいるのに。任務がなくとも頭の隅で土の中に埋もれていく自分の夢を見るのに。這い出ることもできぬ、這い出ようともしない自分。その中に埋もれることを望んでいるのに。 あの約束がそれを許さない。 首に付けられた約束という紐が、沈もうとするイルカを無理矢理引き上げる。どんなに拒んでも、それはイルカの意志とは関係なく、埋もれることを許さない。 「…先生。さっき火影様から聞いたんすけど、近々大きな任務が入りそうですよ」 「…」 「その時は俺とサクラも同行させてください」 今イルカはどんな顔をしているのだろう。髪の間に俯く顔は… 「俺達には貴方が必要です。強さを得るためじゃない…傍にいるために強くなりたい。貴方の行く道は俺達も歩む道。どんなに嫌がってもそう誓ったことを忘れないでください」 俺には何もないんだ。 初めて会った時、ボロボロの姿でそう言っていた。 居て欲しい人も、欲しい物も、何もない。いや…一つだけある。俺を縛り付ける約束。ただそれだけなんだ。 今にも息絶えそうな声で、彼は転がり空を見上げていた。真上に昇っていた月がいやに明るかったことを覚えている。だからこそ、その目が見れた。 じゃあ、俺も此処に居る。 頼りない、そして役目を果たしていない治療を終えた俺は彼の横に座る。 そうしたら寂しくないだろ。 そう言えば、彼は驚いた目をしていた。彼の目は、目の前にあるものを写しているようで、写していなかった。空に昇っている唯一の月さえも彼の心には届いていないと思ったから。それがとても寂しいと思ったから。 なぁ…アンタって強いの? 怪我人にそう聞くのも可笑しかったけど、沈黙だけは嫌だったからそう問いかけた。すると彼は苦しげながらも怪訝そうな顔つきになる。 俺、強くなりてー。いっつも父ちゃんに自慢話ばっかりされるんだ。お前にはまだまだ無理だって。 すげーむかつく。 いつまで経っても子供扱い。その上に馬鹿にするから。 見返してやるんだ。なぁ、駄目? 駄目…?と言われてもな。 だってそうしたらアンタも一人じゃないじゃん。俺が傍にいるんだから。 そうしたら、こんなに深い森も、暗闇も。 もう怖いもんなんてないだろ? 「生きていて欲しいだけなんだけどなぁ…ったくめんどくせ~…」 引き留めなければ、今にも死へ赴いてしまいそうなイルカ。彼のことが好きだから、尊敬しているし、危ういところも放っておけないから。自分達はいつもイルカから目を離せない。 「…つ~ことで、近々ヤキ入れないとな…あの上忍」 はっきりとしたやり取りを聞いていたわけではない。ただ、去る銀色の男が腕にサクラを抱いていたことを見たから。確か彼女はイルカと修行をしていた筈なのに。案の定、離れた場所で冷たい殺気を垂れ流しにしていたイルカを見つける。 「何が気に入らないんだか知らないけど、もともと不安定な人をかき回さないで欲しいよな」 里の誇る上忍だとか、上層部から信頼されているとか、シカマル達には関係ない。大事な者を守るついでに、里を守っているんだから。 イルカと居られるこの里を。 「まずはその原因と…あの高いプライド。うち砕いてやるか」 そう呟き、闇の中に溶け込む。ようやく誰もいなくなったこの場所に風が吹き始め、虫が鳴き始めた。 黒揚羽(2004.7.15) |