月よりも近い

黒揚羽


泣いてもどうしようもないことはわかっていた。だけど泣く以外、自分の心を解き放つ方法は なかった。それを弱さと言ってしまえばそれまで。だが、泣かないことが強さであると言うのもおかしな話だ。

何でお前は泣いてばっかりなの!?

そう怒鳴る母親の顔は、とても恐ろしい。その次に来る痛みは体だけでなく、心も傷つけていくから。手をあげる時、母親は何時も泣きそうな顔をしている。初めは自分を叩くことは母親も辛いのだと、自分の為なのだと言い聞かせていたが、すぐにそれが違うのだと思い知らされた。

辛いのは確かだった。でもそれは行き場のない怒りだった。
毎日仕事で忙しい父親。だがそれが仕事ではなかったのだと、自分を叩く母親の言葉でそれを知る。それがどういう意味なのか、当時の自分はわからなかった。


その日も母親に叩かれて。自分は無意識に歩き出していた。どこに行くのか、どこに向かおうとしているのかなどわからず、ただ安らげる場所を探して。
気付いたら辺りは真っ暗だった。何も見えない何も聞こえない深い森に迷い込んだ。だが何故か怖いとは思わず、これで叩かれることはないのだとほっとして草むらに座り込む。ぶるりと震える体は寒さの為だと、まだ冷たい春風が吹く中で、膝を抱える。誰も居ない、何もない、その闇に安堵した頃、顔を上げてみた。

それは月明かりの悪戯だったのか。昼間と違う穏やかな光をぼんやりと眺める先に、黒い影のようなものが写る。最初は倒れた木だと思った、或いは石の固まりだと。だが…それがぴくりと動いたことに気付いて目を開く。

「…人…?」

母親が追い掛けてきたのかと思い怯えたが、その人は一行に動く様子がなかった。のろのろと立ち上がり、ゆっくりと近づいてみると、その人は地面に四肢を投げだしたまま空を眺めていた。鼻を掠めた匂いに驚きそれ以上近づくのを躊躇したが、その人が空を見上げる目に勇気を振り絞り足を進める。

何もない。
その人の目を見た時そう思った。のぞき見る自分を、足音を聞き取っている筈なのに、その人はそれすらも見えていないように、自分のところへ降り注ぐ光の元を見続けている。まだ大人になっていない、少年と一般的に呼ばれるだろうその人は、近所のお兄ちゃんと同じぐらいの歳。だが、自分を見つけると嬉しそうに頭を撫でる彼に比べると、この人の持つ雰囲気は何て寂しいものだろうと、何故か酷く悲しくなる。

すぅっと月が雲に隠れ出し、降り注ぐ光が弱くなる。
するとその人の目が、悲しげに細まった。

「…お前も行くのか」

その人はとても寂しげに呟いて、姿を隠そうとする月を見ていた。泣いてしまいそう、そんなことを思った自分はその人の傍に座り込み、傷で一杯の手に触れてみた。
ひんやりとした冷たさが、その人の心に感じられて。

「じゃぁ、私がここに居てあげる」

きゅっとその手を掴むと、その人は初めて自分に気付いたように視線を向けてきた。何が起きているのかわかっていないような、不思議そうな顔。だからもう一度強く手を握ってあげた。

「ここに居るよ」

そう言うと、その人はゆっくりと上半身を起こし、自分をじっと見つめてきた。のろのろと自分に掴まれていない手を挙げて、自分の頬に触れ、肩に触れ、もう一度頬に触れる。

「…ここに居る?」
「うん」
「俺の傍に?」
「うん」

何度も確かめるように聞くその人に根気よく頷いていると、さっき隠れた月が再び顔を出した。それに気付いたその人は、またあのぼうっとした目で空を見上げ出す。そのことにちょっと悔しくて。

「お月様と私。どっちが傍に居た方がいい?」

そう質問すると、その人は自分と月を見比べた。そして一言。

「こっち」

自分の手を強く握ってくれた。それに満足して笑うと、その人はとても優しい目になって、自分を見つめてくれた。

私も傍に。
貴方も傍に。

そして私はどんなことがあっても泣かなくなった。