「ずるい。兄貴はずるいよ。そうやってただ逃げているだけだ!!」
そう叫び目の前から走って消えた少年は、自分よりも逞しくて、強くて、何よりも不確かな未来というものを信じていた。
パラパラと読み終えた本が風にめくられる。そこら中に散らばった本の中を、寝転ろびながらただ天井を見上げていた。
「何時まで腑抜けているのさ。いい加減にしたら」
心底軽蔑したその目には、悲しみという甘さに浸る自分を責めていた。
「…腑抜けてなんかいない。本を読んでるんだよ」 「医者になるんだって?」 「聞いたのか」 「馬鹿じゃないの」
容赦ないその言葉に、さすがにむっと来て睨み返す。だが自分というものを持ち、それを信じきっている相手の目は、僅かでも後ろめたさを持っている者にはあまりに眩しく。目を合わせられない。
「医者なんて。兄貴に勤まるわけないだろ」 「…見くびるなよ。俺は…」 「兄貴に人の死が耐えられると思わない。まだ事故とか、怪我とかなら平気だろうけど。病気とかで長い治療をする人には…絶対情が移るだろ」
的を射た彼の言葉に動けなくなる。 畳を少しかすって握った拳を、彼はじっと見る。まるで人の心情を見透かすように。
「…それでも俺は…医者になる。アイツと同じ思いを誰にもさせたくないから」 「…だからそれが馬鹿だって言ってるんだよ」 「馬鹿…だと!?何がだっ!!一人でも誰かを救いたい、不治の病を一つでも減らしたいと思う気持ちのどこが馬鹿だって言うんだ!!お前こそなんで平気なんだ!何もなかったように、あいつが居なかったように。平気な顔をしてられる!」
薄情だと叫ぶ自分だったが、彼の顔は揺らぎもしなかった。まるで自分はすべて正しいのだと、そんな顔に腹がたって。
「出て行けっ!!」
すべてを拒絶して背を向けた。
「…そうやって兄貴はすぐ逃げる。ずるい。兄貴はずるいよ…いつも逃げて」 「…」 「本当はわかってる癖に。そうやっても何の解決もしないってわかってる癖に…」 「…」 「ずるい。兄貴はずるいよ!」
叫ぶ声に最後まで振り向かず、彼は諦めて出て行った。
そして次に会ったのは、物言わぬ骸。
彼の首にかけられた袋から出てきたのは、一枚の写真。 自分と彼と妹と。 笑っている顔がそこにあった。だけど…自分を除いた二人はもう居ない。 この笑顔は二度と戻ってこない。
一つは天命で。 一つは…戦場で。
置いていかれた。
妹を失った悲しみは、弟も同じだったのに。
小さな頃から病弱な妹が、夢も果たせぬまま逝ってしまったことが不憫で、彼女の体を蝕んだものをこの手で消したかった。だが、弟は気づいていた。そんな思いをもう誰にもさせたくないと、大義名分を述べている自分が、ただ妹の死を受け入れぬだけだったのだと。だから医者になると言った自分を詰ったのだ。
妹が望んでいたのはそんなものじゃない。 彼女は最後まで里を愛していた。もし、本当に彼女の望みを叶えたいならば…
自分は忍の道を選ぶべきだったのだ。
妹が死ぬ前から弟は忍を目指していた。任務から帰ってきた弟に話をねだる妹。その場所にいることが、何よりも幸せだった。 彼はそんな頃から妹の夢を一緒に叶えようとしていたのに。
馬鹿だと詰る弟の言葉には。 妹を忘れないでとの願いが篭められていたのに。 自分だけが傷ついていると思って、それが許されるのだと当然のように居て。
「兄貴ならすごい忍になれるね!」
誰よりも妹の思いと、自分の素質を見抜いてくれていた弟を。
ずっと苦しめていた、情けない兄貴。
薄い月明かりが慰霊碑に注がれる。 柔らかく、儚く、大切な名が刻まれた墓標。
「墓参りか?」
手に持つのは、菖蒲の花。任務帰りのこの身では、水で洗っても血の臭いが漂ったまま。
「まぁね」
暗部の装束を纏、面をつけたまま墓参りなんて笑える。面の下から漏れてしまった声に、相方は何も言わず姿を消した。
「悪いな。時間がなかった」
あと数分で日が変わる。今日中に来るために任務を急ぎ、相方には迷惑をかけたが今回だけは見逃して欲しい。
弟の墓参りの日だけは。
黒い面を取り、花を添える。 いつも妹ばかり気にしていた自分。たまには花でも買っていこうかとピンク色の花を選べば、別の方向に視線を向けている弟に気づいた。
欲しいのか? そう問うと彼はびっくりした顔でこちらを向き、首を振った。普段かまってやれない後ろめたさから、それを一本抜き出して妹と同じように包んでもらい渡すと。
「ありがとう兄貴!」
初めて兄から貰ったプレゼントに、満面の笑みで笑った。
「ったく…たかが花一本なのにな」
花が落ちるギリギリまで部屋に飾り、その花びらを守り袋の中に入れていたことを知っている。写真とともに舞った紫が、今でも忘れられなかった。
「まだ…お前らのところに行く予定はないからな」
お前が大事にしていた紫。それを守らないといけないから。
「その時は…二人で兄貴って呼んでくれるかな」
当然だろ。 呆れたような声が耳を掠めたように思えて。 サイは笑った。
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